第50期 駿台天文講座  第593回講演  講演要旨
                山梨大学大学院 准教授  高橋 智子 先生 

兵用天文学の展開 ― 「戦場に輝くベガ」に描かれた現実


 時を知り、進行方向を見定めるために、古代から星は使われてきた。地図や星図も古代から知られるが、時代を経て、その範囲と正確さは飛躍的に広く高くなっていった。また太陽や月、惑星や恒星の周期的な運行は「天体暦」に記録され、カレンダーや「航海暦」が工夫された。18世紀には天体の位置を予測することは天文学の重要な研究課題ともなり、天体力学に基づく膨大な暦計算の結果として「天文暦」が作成され、それをもとに「航海暦」が刊行されるに至った。さらに天体の位置を決める座標基準として、1884年(明治17年)には国際子午線会議が開催され、イギリスのグリニッジ天文台の子午線を本初子午線とすることが採択されると、グリニッジ平均太陽時が標準時として天文学や測地学の分野で使われるなど、国際的な分業による共同研究が可能な体制が構築された。1911年(明治44年)の国際編暦会議では英仏独米の4か国はそれぞれ暦計算の分担を決め、第一次大戦中もデータの交換が行われたという。

 そんな時代に日本の海軍水路部は、本格的な編暦業務を開始した。1906年に「航海暦編纂方取調委員会」が組織され、東京帝国大学理学部星学科を1888年に卒業した蘆野敬三郎が雇われて「明治四十年海軍航海年表」を刊行したのを始まりとし、中野徳郎(1899年同卒業)、小倉伸吉(1908年同大学院修了)、秋吉利雄(1926年同卒業)、塚本裕四朗(1926年同大学院修了)ら「天文学者」たちが編暦課長としてその業務を指揮した。しかし彼らが国際的な分業体制を担うことはなく、戦時体制に組みこまれる中で、ソロバンが使えるように計算方法を工夫することで、すべての計算を人海戦術でこなせる体制が整えられ、結果として、さらなる人海戦術で海軍航空隊の要求に応じていくことになってしまった。その研究は「兵用天文学」とでもいえるもので、「戦場に輝くベガ」で紹介された「高度方位暦」はその研究成果とみることもできる。

 2010年の夏、8月6日に、海軍水路部を引き継いだ海上保安庁海洋情報部の建物(築地)の3階倉庫から、偶然に14冊の「高度方位暦」が見つかった。これによってプラネタリウム番組「戦場に輝くベガ」で話題になった「航空暦」が、実際にどのようなものだったのかを確認することができた。
 保管されていた「高度方位暦」は14冊で、昭和19年分が全部で7冊、昭和20年分は7月分、8月分、9月分、10月分と一月単位に出された4冊であった。19年6月刊行の表紙には「高度方位暦」の文字の下に小さくではあるが(軌跡航法二依ル基地帰投用)と書かれていた。つまり当時、使われていた海軍基地のそれぞれの場所で見える天体の高度と方位を記したものであった。計算された基地は、昭和19年分では横須賀、父島、南鳥島、ウェーク、サイパン、トラック、パラオ、ラバウル、硫黄島、ダバオ、鹿屋、那覇、南大東島、高雄、沖ノ鳥島、マニラの計16カ所で、6月から12月32日分までがほぼ計算されていた。昭和20年分は木更津、硫黄島、鹿屋、那覇の4カ所分であった。
 最終的には、それぞれの基地について、毎日24時間を20分毎に適当な3つの天体を選んで、各高度と方位を記し、3日分を1頁に収める形で編集された。理論的には、帰投するパイロットは、その時間にその基地で3つの星がどう見えるのかを調べ、その値を実際に観測した値と比べることで、正しい飛行方向を判断できたはずである。従って機上ではほとんど計算することなく基地への帰投を可能にしたもので、戦後1969年に当時の編暦課長の進士晃は「天体航法用の暦の究極的な形として、諸外国で高く評価されている」ものとして高度方位暦を回顧している。