2017年10月21日 第619回 月例天文講座

宇宙インフレーション理論の最近の進展  
  ー 科学記者の目から ー 

     日本経済新聞科学技術部 記者  中島林彦  
 

 欧州宇宙機関(ESA)は2013年,探査機プランクによる宇宙マイクロ波背景放射(CMB)のこれまでで最も高精度の全天マップを発表した。宇宙マイクロ波背景放射は約138億年前,宇宙誕生から約38万年後に放射された光だ。ESAの研究グループはこの全天マップによって,1970年代初頭に提唱されたインフレーション理論がより確かなものになったとのコメントを出した。
 インフレーション理論は宇宙は誕生直後,急激な加速膨張を経験したという仮説だ。現在の宇宙が,星や銀河,銀河団といった階層構造のもとになる物質密度のわずかな揺らぎを除いて場所や方向によらずほぼ均一で平坦になっている事実は,インフレーションでうまく説明できる。
 またインフレーションは宇宙の大部分で永遠に続いているとの見方があり,これを「永久インフレーション説」という。この説によれば,たまたまインフレーションがいったん終わった部分の1つが私たちが存在する時空で,それを私たちは唯一無二の宇宙(ユニバース)として認識しているが,同様にして無数の宇宙が生み出されていると考えることができる。これをマルチバース説という。
 ただ異論もある。米プリンストン大学のスタインハート博士らは,プランクの最新データはむしろ最もシンプルなインフレーション理論のモデルを否定するもので,宇宙の起源や進化に関して別の仮説を考える新たな理由を与えているとの見方だ。
 スタインハート博士らが提唱するのは「ビッグバウンス」説。宇宙に始まりはなく,約138億年前に起きた「ビッグバン」という現象は,それに先立つ何らかの宇宙論的な時期から現在の膨張期へ移行するイベントだったという解釈だ。このように考えれば,宇宙初期の加速的膨張は必要がなくなり,マルチバース説の有力な論拠も失われることになる。
 スタインハート博士らは自説を述べた記事をSCIENTIFIC AMERICAN誌の今年2月号に発表したが,この記事に対して当代を代表する日米欧33人の物理学者が連名で反論の書簡を同誌に寄せた。書簡の執筆者にはインフレーション理論と宇宙マイクロ波背景放射観測のパイオニアはもちろん,宇宙論や素粒子理論の有力研究者や重力波観測のパイオニアも名を連ね,ノーベル賞やフィールズ賞の受賞者も何人もいる。
 日本の研究者ではインフレーション理論の観測で世界的に有名な独マックス・プランク宇宙物理学研究所長の小松英一郎博士と,マルチバース理論で知られる米カリフォルニア大学バークレー校教授の野村泰紀博士,重力理論の研究で知られる京都大学教授の佐々木節博士が加わっている。野村博士によると書簡の文案が完成するまでに執筆者の間で約1000通のメールがやり取りされたという。


[参考](中嶋浩一記)
*右上カットは,関連記事を掲載した日経サイエンスの表紙,本年6月および9月号.
 (クリックで拡大します.)(日経サイエンスホームページより.)