2022年1月15日 第670回 月例天文講座 

国立天文台前史
    水沢緯度観測所の木村栄

     一橋大学 馬場幸栄
        (右図は『国立天文台ニュース』No.317 表紙より)

 昭和63年、東京天文台・緯度観測所・名古屋大学空電研究所第三部門の3機関が統合されて国立天文台が誕生しました。そのひとつである緯度観測所(岩手県水沢)において初代所長として活躍した天文学者・木村栄(ひさし)と、彼を支えた緯度観測所の所員たちについて紹介します。

 木村栄は明治3年に石川県の金沢で誕生しました。塾を営んでいた養父のもと、幼い頃から英才教育を受けて育ちました。特に得意としていたのは算盤で、明治22年に帝国大学理科大学星学科(現・東京大学理学部天文学科)に進学しました。大学では、星学科教授と東京天文台初代台長を兼任していた寺尾寿(ひさし)から天体観測を、地球物理学者・田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)から地磁気観測を学びました。

 この頃、万国測地学協会が「国際緯度観測事業」という国際観測プロジェクトを立ち上げました。世界6か所で毎晩天体観測を行うことでその観測地点の微細な緯度変化をとらえ、そのデータをもとに地球の回転軸の揺らぎを計算しよう、という壮大なプロジェクトでした。北緯39度8分上にある水沢(日本)、カルロフォルテ(イタリア)、ゲイザースバーク、シンシナティ、ユカイア(米国)、チャルジュイ(ロシア)が観測地として選ばれました。

 当時の日本は列強諸国から科学後進国と思われていたため、ドイツのポツダムにあった国際緯度観測事業中央局は水沢の緯度観測所にドイツ人観測者を派遣するつもりでいました。しかし、地震学者・大森房吉らがそれに反発し、日本人だけで立派に観測してみせると主張しました。そして、その国家の威信をかけた任務をまかされたのが、木村栄でした。

 明治32年、水沢に設置されたばかりの緯度観測所に木村が所長としてやってきました。所長といっても、観測を担当する技師(研究者)は木村と中野徳郎の2名のみです。ドイツから持ってきたヴァンシャフ社製眼視天頂儀を使って毎晩何時間も観測を行うのですが、雪深い水沢での天体観測は寒さとの闘いでした。

 苦労してとった観測データをポツダムの中央局に送ると、水沢のデータは計算値から外れすぎている、何か方法を間違えいるのか、あるいは観測機器に故障があると思われる、という連絡が来ました。これでは日本の面目は丸つぶれだと日本の科学者たちのあいだで大騒ぎになりました。
 すぐに田中舘らが水沢へ行き、木村と一緒に観測方法、観測機器、観測野帳を調べましたが、異常は見つかりませんでした。追い詰められた木村は、天文学者を辞めることも覚悟し始めました。しかし、あるとき各地の観測データを見つめていた木村は、それらすべてに共通する年周変化があることに気づきました。そして、その年周変化を説明するためには、従来使われてきた数学者・レオンハルト・オイラーの計算式に新たな項を加える必要がある、ということも発見しました。これを「Z項の発見」と言います。

 木村による「Z項の発見」は世界中の科学者を驚かせました。Z項を加えて計算し直してみると、じつは水沢の観測データは6か所ある観測所のなかで最も精度が高かったということも明らかになりました。こうして木村は名誉を挽回し、また、日本の科学力の高さを世界に示したのでした。大正11年、木村は国際緯度観測事業の中央局長に就任し、水沢の緯度観測所が同事業の中央局となりました。

 中央局長となった木村は、京都帝国大学出身の天文学者・川崎俊一と気象学者・池田徹郎、カリフォルニア大学出身の天文学者・山崎正光を技師として迎えました。また、水沢の尋常高等小学校を卒業したばかりの平三郎を機械工見習いとして採用したほか、水沢の尋常高等小学校や女学校を卒業した女性たちも計算係として積極的に雇用し始めました。

 才気あふれる若手研究者や地元の若者たちに支えられながら、木村は昭和16年に緯度観測所所長を勇退しました。こうした所長・木村の苦労や所員たちの支えがあって水沢の緯度観測所は発展し、国立天文台の礎のひとつとなったのです。


参考

馬場幸栄「木村栄の生涯-前編-」『国立天文台ニュース』No.317,2019年12月1日,3-9.
   https://www.nao.ac.jp/contents/naoj-news/data/nao_news_0317.pdf
馬場幸栄「木村栄の生涯-後編-」『国立天文台ニュース』No.318,2020年1月1日,7-13.
   https://www.nao.ac.jp/contents/naoj-news/data/nao_news_0318.pdf