那須基線の設定

地図:関谷、西那須野、矢板

日本で地形図の基礎となった基線は参謀本部により1882年(明治15)に設置された相模野基線でこの基線は神奈川県相模原市と同座間市にまたがっています。しかしそれ以前に内務省の「関八州大三角測量」の一環として1878年(明治11)に那須基線が設けられ測量されています。この基線は栃木県西那須野町と太田原市にまたがり遺跡が残存しています。1875年(明治8)内務省地理寮により関八州大三角測量のための基線場として三角網の両端近傍で平坦な地形の相模原と那須野ヶ原の選定をしました。その経緯についてはつぎのように記録されています。なお地理寮は1877年(明治10)に地理局と改称されました。

明治八年四月廿七日正院ノ允裁ヲ得テ關東八州大三角測量ノ業ヲ創メ先ツ底線測量ノ地ヲ撰定センカ爲メ第五月ヨリ御雇英人ヲ主任トシ我技員ト共ニ武相總野州ヲ巡行シ那須野其他平坦ノ原野ニ於テ山岳ノ方位ヲ實検シ相模原及武州奈良橋村ニ於テ假リニ望遠臺ヲ建設シ且ツ其地ヲ概測セリ而シテ彼是其一處ヲ決定セン爲メ量地課長測量師長技員吏部ト共ニ復タ上文ノ各州ヲ經過シ尚ホ信甲二州ノ原野ヲ歴視シテ歸リ遂ニ那須西原ヲ以テ八州測量ノ底線ヲ実測スル地ト確定セシハ第十二月ニシテ此底線地ノ廣狹ヲ知ランカ爲メ本年三月技員先行シ原上ヲ實測シテ村庄叢林ノ限界○(「口」のなかに「有」)園空曠ノ區域及ヒ道路溝流ノ蜿線等ヲ畫成セル一圖ヲ製シ更ニ四周遠近ノ山位ヲ補載セル小圖ヲ作レリ當時主任英人親ク地形ヲ觀シテ底線ノ方向ヲ定メ之ヲ圖上ニ畫記セリ其經費ハ總計金三千百貳拾九圓九錢六厘ニシテ第二十二號表ノ如シ [内務省:内務省第一回年報 1876 p591]

この記録中には相模原のことは詳しく載っておらず那須基線が先行、決定しています。「御雇英人」はマックヴィーン(Colin Alexander McVean)、ヘンリー・シャボー(Henry Scharbou)、「我技員」は六等出仕室田秀雄のことです。[館潔彦:洋式日本測量野史 「三交會誌」二十一號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p281]

また那須基線につぐ第二の基線は1880年(明治13)年に遠江国味方ヶ原(三方原)が選定されていますが実際は参謀本部により1882年(明治15)に設置された相模野基線が先行します。[内務卿:内務卿第六回年報 1884 (復刻版 三一書房 1984 p24)][内務省地理局:地理局第六回年報 1881 p3]

那須基線はお雇い英国人マクヴィーン測量長(実務はシャボー)の指導により基線測量、経緯度測量、高低測量が行われました。基線測量には北海道開拓使が米国から導入したヒルガード測かんと呼ばれる4メートルの長さの物差しを3個、1組として何度も繰り返しミリメートルの桁まで測りました。巻尺ではなく直径9ミリメートルの丸棒状の竿になっており両端を三脚で支えます。精度は5キロメートルで1ミリメートル程度の誤差です。ヒルガード測かんは米国測量局のヒルガード(Julius E. Hilgard)技師の考案した基線測量用の物差しでヒルガード基線尺とも四米突鋼かん基線尺ともいいます。測かんの「かん」は漢字では金へんに旱と書きます。

経緯度の測量は南端点、宇都宮八幡山と地理局測量課のあった東京葵町の間で軍用電信を利用し経度測定をし、また緯度はタルコット法(天文観測)により決定しました。南端点では小林一知、八幡山では三浦清俊、東京では荒井郁之助がこの任務にあたりました。[館潔彦:洋式日本測量野史 「三交會誌」二十二號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p333]

全國三角測量ノ事業タルヤ既ニ明治十一年六月ニ於テ基線ヲ下野國奈須郡西原ニ測定シソノ南端ヨリ北端ニ至ルノ距離二里二十五町二十五間三尺四寸二分四厘九四七ヲ得タリ此測量タルヤ米国製二等三角測量ニ用ヒタル測竿ヲ以テ二回ノ測量ヲナセシニ其差纔カニ一寸二分過キサリキ [内務省:内務卿第四回年報附録、地理局第四回年報 1879(復刻版 三一書房 1983 p306)]

北端点は栃木県西那須野町千本松、南端点は大田原市実取(みどり)で二点間の距離は10,628.310589メートルと測量されています。北端点から南端点にいたる直線は現在も10キロメートルの真っ直ぐな道路として残っており「たて道」とか「ライスライン」と呼ばれかつては開拓道路とされていました。この道路は北端点の前の道ではなくインターチェンジに戻り西へ約200メートルのところから南へ広い車道となっています。またこの道路に沿って基線設置後つくられた那須疏水第四分水(縦掘)が流れています。二万五千分の一地形図では「西那須野」と「矢板」がこの範囲にあたります。

北端点は東北自動車道西那須野塩原インターチェンジの西800メートルのところにある畜産草地研究所の正門前にあり1941年(昭和16)この地に馬事研究所が設置されたときに発掘され、写真を含めた発掘記録が作成されています。[西沢道夫:近代測量史より見た那須野観象台 「西那須野町郷土資料館紀要」2号 1985 p1−20]

現在は設置当初に呼ばれていた「観象台」として西那須野町指定文化財になっています。北端点跡は高さ90センチメートルほどの盛土で芝生に覆われたマウンドになっており、この中に金属指標の端点を保護する石室があるそうです。マウンドのそばには几号水準点の標石が置かれていますが、これは50メートルほど南東にあったのを移設したものです。この水準点は両端点の標高を測定して高低差から水平距離を求め、さらに基線長の平均海面上の距離を求めるために設置されたと考えられます。したがって当然、南端点でも標高の測量はやっているはずです。那須基線の水準測量については、高低測量・几号水準点のところで説明します。

南端点は2000年(平成12)1月に大田原市教育委員会により国土地理院の協力を得て発掘復元されました。「たて道」の西側にある「やまと石材店」の南側にあります。わたしの行った時点では案内標識など那須基線を示す標示はなにも見当たらなかったのですが道端の理髪店で聞いてわかりました。南端点は2.5メートル角、地上高さ約1メートルで大谷石の石室です。またこのモニュメントの右隣2メートルのところには三等三角点「南区」(なんく)5539−17−9901があります。

2000年(平成12)に発掘されたときは南端点石室の金属指標はなくなっていたそうですが(北端点には残存)復元され最上部のふたをずらし、さらに欠けた中ぶた(発掘のままか)を持ちあげると見ることができます。また基線長も50.6センチメートル短い結果になりましたが測量誤差ではなく投影補正(地球の球体を平面に投影する)の問題であろうといわれています。[箱岩英一、平出美則:那須基線端点の発掘「測量」 日本測量協会 2000.5 p57−59、2000.6 p62−65、2000.7 p46−48]


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