バークシャーとバッキンガムシャー
王室天文官に任命されたウィリアム・ハーシェルはウィンザーの近くに住むことが必要となり、1782年の夏に彼とカロラインはテムズ川に近く国王の居城から2マイルほどのダチェットに転居した。この家は「紳士の狩猟小屋」と称されはしたものの、非常に荒れ果てていた。しかし快適な離れの建物があったし、観測のための敷地もあったので、ウィリアムは喜んでいた。20フィートの大望遠鏡が初めて組み立てられたのはここであった。しかし冬になると湿気が多く水浸しになるため、3年経つとウィリアムは重い病気になってしまい、転居せざるを得なくなったのである。
オールド・ウィンザーのクレイホール・ファーム・ハウスはウィンザー大公園の端にあって国王の居城からわずか1マイルの距離であり、ウィリアムがすでに計画していた40フィートの望遠鏡を建設するのに絶好の場所を提供してくれるはずだった。しかし、彼は(カロラインが「訴訟の好きな女性」と呼んだ)家主と交渉しなければならなかった。家主の女性は、ウィリアムが家屋敷に手を加えれば、家賃を上げることになるのではないかと恐れたのである。そこで、たった9か月後の1786年4月に、スラウへ最後の転居をしたのであった。(クレイホール・ファーム・ハウスは1842年に王室弁務官に払い下げられたが、1979年に解体されてしまった。王室弁務官がこの建物の歴史的意義を認識していなかったためだろう。)
オブザヴァトリー・ハウス(観測館)として知られるようになった建物は、かつては辺りを取り囲むたくさんの見事な楡の木のために(その多くをハーシェルが地平線近くの視界を得るために伐り倒してしまったのだが)「木立の館」と呼ばれていた。この家はボールドウィンという名前の裕福な一家のものであり、その一家の娘メアリーが1788年にウィリアムと結婚したのであった。この家は後に「蔦の館」と改名された。ウィリアムの結婚後、カロラインは庭園のコテージに移り住み、そこの屋根から彗星を捜索していたため、やがてオブザヴァトリー・コテージとして知られるようになった。オブザヴァトリー・ハウスという名前は後に19世紀になって付けられた。ウィリアムが40フィート大望遠鏡を建設したのはここであり、50フィート以上の高さにそびえる望遠鏡は50年に渡ってイギリスの国土測量局発行の地図で分かりやすい目標物とされたのである。
往時のオブザヴァトリー・ハウス
ウィリアムは1822年に死去したが、この家は1960年に解体されるまでハーシェル一族が使用し続けた。
40フィート望遠鏡の鏡筒
とはいえ、ちょうどハーシェルの望遠鏡が当時の技術の最先端だったように、その土地に現在イギリスの最先端のコンピューター会社であるICLの本社が置かれているのはよく似合っているし、その建物は今でもオブザヴァトリー・ハウスとして知られているのである。
日本ハーシェル協会ニューズレター第87号より転載
和訳:木村達郎